羽ぶとん誕生ストーリー

羽毛研究とイワタの始まり

滋賀県は琵琶湖の東部、のどかな田園風景が広がる湖東地域に[イワタ羽毛研究所]はあります。

ここで行われているのは輸入した羽毛の検査。現地で精製を経て運ばれてくる羽毛を、イワタではさらに綿密な検査を行い、独自の技術を施して、よりクリーンで良質な羽毛に仕上げます。

しかし、昔からこの精製が可能だったわけではありません。

イワタの創業は、今から180年余前の天保元(1830)年。京都の三条通りに[岩田蒲団店]として店を構えたのが始まり。

三代目の岩田市兵衛は、欧州で羽ぶとんが使われているのを知り、"綿の次は羽毛かもしれない"と考えました。

市兵衛は大正時代から羽毛を研究し始めた、日本での羽毛ぶとんのパイオニア的存在ですが、その頃は羽毛を洗浄する技術が不十分で、製品は様々な問題を抱えていました。

親子の飽くなき探究心

当時の羽ぶとんは、洗った羽毛を乾燥させ和紙で覆い、絹の生地を縫製するため、生産数に限りがありました。しかし、羽ぶとんの保温力・軽さに惚れ込んだ市兵衛は、より上質で生産しやすい製法開発にのめりこみました。その当時を市兵衛の息子、卓三は次のように語っていました。

「6歳の頃に、バケツの水に粉末と薬品を入れ、枝でかき回すように父が命じたのを覚えています。今思うとこれが羽毛の洗浄液で、中性にするための実験をしていたのです」。その時初めてリトマス試験紙を知った卓三は、子ども心にその光景が鮮やかによみがえるといいます。

当時の精製はアク洗いだから、羽毛がアルカリ性に弱い点を改良し、中性洗剤の研究をしたことは、とても画期的なことでした。

けれど、自らの研究だけではどうにもならず、市兵衛は京都工芸繊維大、阪大、神戸大に依頼し、羽毛洗浄に新しい道を切り開きました。市兵衛亡き後、卓三はある教授から「研究用にトラック何杯もの羽毛の提供を受け、だめにしてしまった」と聞き、あらためてその大変さを知ったといいます。

そんな市兵衛が最後まで開発できなかったのが、羽ぶとんの生地でした。軍隊時に患った結核が再発した卓三は、療養後、繊維商社へ入社し、紡績会社と共に生地の開発に着手。そして昭和38年(1963)年、家業へ復帰し[株式会社イワタ]を設立しました。

翌年には、糊や樹脂を使用しない日本初の『ダウンプルーフ』を発表。こうしてイワタは、親子の飽くなき探究心をルーツに、日本の環境に応じた羽ぶとん製造への道を辿ったのです。

他社の追随を許さない理由

羽毛で最も困難なのは、脱臭と殺菌、ごみの除去です。薬品を使わず、どれだけ清潔にできるかが鍵。

ある時卓三は、妻のコールドクリームを見て疑問に思いました。油脂や保湿成分や水を含むのに腐敗しないのはなぜだろう?強い薬品なら肌が荒れるはず・・・。頭に浮かんだのは古代エジプト。

そこには、香料を防腐や殺菌に用いた歴史があります。この着眼が、脱臭・殺菌を同時に且つ安全に行う『香料薫蒸法』開発につながり、実用新案取得の鍵となりました。

次に羽毛の精製力を高めた『イオゾンα2』(世界13ヵ国特許取得)を開発し、家庭で洗える羽ぶとんが完成。後も『イオゾンδ』(世界10ヵ国特許取得)などの技術革新を続けました。

羽毛の夢を見続ける-

現社長の岩田有史はいいます。「“ふとんは中身が見えない。だからこそ、中身にこだわれ”-これは、父・卓三が市兵衛から託された言葉です」。

市兵衛の孫にあたる有史は、その意思を継ぎ品質のさらなる安定化と向上を目指した。それは、羽毛の研究を行う[イワタ羽毛研究所]や開発部門にも及びます。

加えて全てのパーツが有害化学物質に対する国際的な安全性基準・エコテックスに合格し、製品レベルで認証を受けました。

現在、イワタは様々な自然素材を用いた寝具を総合的に展開、現代のライフスタイルに合う良質の寝床環境を提案しています。

原点である羽ぶとんのコンセプトとものづくりは、発売から50年以上を経た今でも変わりません。ご愛用者様の笑顔を励みに、力を合わせて地道な努力を重ねています。